「沖縄戦慰霊の日 アンケートページ 8」

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14個の質問を用意しまして、それについてお答えを求めました。無理に回答を求める事はせず、回答が空欄になっている箇所が多くございます。

可能であれば、お名前・生年・居住地を尋ねています。




金城さま 昭和14年生男性 中頭郡西原町


1. 今日はどなたの慰霊に参られましたでしょうか?

姉(昭和7年生、軍属として従軍)

当時はアメク部落にいた、今の新都心のあたり


2. 平和の礎が出来てからどのくらいの頻度で訪れているでしょうか?

毎年


3. 平和の礎が出来る前は、慰霊の日はどうしていたでしょうか?

石ころを拾って姉の骨と思って供養していた。毎月1日と15日に。仏壇に手を合わせている。


4. 沖縄戦について、誰からどのように学ばれたでしょうか?

昭和14年生まれだから当時の事を覚えている。6歳くらいだと微妙な年齢で、当時恐いとは意識しなかった。

当時は避難しながら、一緒にいたおばさんのシラミを取ってあげて、そのおばさんは眠っていた。

避難したお墓の中で火を炊いたらモクモクして大変だった。母が外で食料などを仕入れて来てくれた。

水路の溝に入って戦火を避難した。水でじゃぶじゃぶになりながら水路に避難していた。

(降伏する時の事)玉城村あたり(今の高校あたり)、シラミ小屋に家族で避難している時、一緒にいた賢い男の人が「そろそろ降伏できる」と先頭に立って、白い旗をかかげて海岸バタをたくさんでゾロゾロ歩いた。

米須の海岸では硫黄で人の骨が光る。砂浜に死体がたくさん。

サトウキビを抜いたら一緒にがい骨がくっついていた。


5. 戦争中当時の沖縄県民について、日本軍の影響で「生きる」よりも「死」を選ばされたと思うでしょうか?

慶良間や読谷など、場所によって違う。アメク部落ではなかった。大きい家を兵舎に取られた事はあった。


5.2 日本軍が沖縄県民に死を強いた事はないという意見がございますけれども、どのように思いますでしょうか?

日本軍の影響はあったと思う。余裕があった時は軍も県民を守ってくれた。(覚えているのは)オハマ病院と高射砲陣地のそばで、日本軍が配給してくれた事があった。

余裕が無くなってくると違う。人の心は変わる。負け戦になって来るうちに変化する。アメリカがまいたビラを拾うと日本軍に殺されるから拾うなと大人に言われた。


6. 本土復帰50年になりますけれども、本土復帰当時は嬉しかったでしょうか?

嬉しいも何もなかった。

当時の理想としては、基地がなくなって、良くなる部分が多いだろうと希望していた。

一方で復帰当時でも基地のおかげでお金が回っている事は知っていたし、沖縄県自体が稼げない所だと理解していた。


7. いわゆる基地負担は感じますでしょうか?

辺野古移設は大反対。沖縄の人間としては反対するのが当然。今の自民党はダメ。沖縄を忘れているんじゃないかと思う働きぶり。

(小渕元首相に水を向けたあとで)オブチは心が残っているんじゃないか、アベなんかとは比べ物にならない。


7.2  子供の時、20歳の時、現在、で考えると基地負担の理解はどのようでしたでしょうか?

戦後難民になって、普天間のノダケに移動させられて住んだ(移住)。ノダケで戦争の傷を(塩と油で)治して貰った。今でもレントゲンを撮ると破片が体に残っている。


7.3 具体的な基地負担を挙げるとすると、どのようなものがあるでしょうか?

普天間基地のそばの西原町に住んでいるから、オスプレイの音がすさまじい。


8. 基地負担はなくなって欲しいでしょうか?

軍というのは人の言うことを聞いてくれないから厄介。アメリカと交渉出来るように、日本には交渉力をもっとつけて欲しい。毎日オスプレイが飛んでくるという事は交渉力がない。

一応はルールを作っているのに、それを破られる、苦情を言っても効かない、だから余計に癪に障る、誰が考えても許容できない。

(一方で)日本を守ってくれるんだったら考える余地はあるけれども、安保条約っていうのは、結局沖縄だけが犠牲になっている。辺野古、嘉手納、普天間、基地を広げるのは沖縄としては許せない。


8.2 基地負担をなくすにはどのような方法が考えられるでしょうか?

県外への移転はひとつの案だと思う。


10. 仮に、沖縄の基地負担を県外の自治体が申し出たとしたら、賛成でしょうか?

大阪が基地負担に手を上げてくれたような考えは賛成出来る。ハシモトもただのお喋りではない。


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