2005-8月 衆議院選挙に立候補した時の「選挙ポスター1枚目」

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「有権者に責任有り 不信任も白票で 前田真司は投票率90%越えを目指し、父の許しを得ようと努め落涙、立候補しています。」

 人間はお父さんとお母さんが交わり生まれてきます。人間には必ずお父さんとお母さんがいる訳であり、いなければ自分自身は生まれてこなかった訳であります。

 お父さんお母さんには自然と感謝するようになるのでございます。しかし今回の私の立候補につきましては両親ともに反対してくれました。現在の社会常識から見れば当たり前のことであり、賛成するほうがどうかしていると言います。

 しかし果たしてそうでありましょうか、我々の日本社会は正常でありましょうか。知らずしらずのうちに長いものには巻かれるよう、自らの意見を抑えるよう、都合の悪い個々の人権を認めないよう、強いものにとってしか都合の良い事がない社会となりつつあるのではないでしょうか。その社会の中でなら、確かに弱者素人である私の立候補は非常識でありましょう。

 しかし我々は日本国民であり、先人が宣言してくれた誇るべき日本国憲法の下で生きているのであります。そしてその崇高なる宣言に沿えば、被選挙権を用いて立候補し、国政選挙である衆議院選挙の中で、日本社会について考える事を論じ、訴えても、なんらおかしくありません。

 私の立候補は正常であり、無理に止めようとするほうが非常識なはずであります。しかし最初に申しました通り、等しく人間は父と母によって生まれて参ります。それが持つ絆というものは一言では言い表せず、素晴らしい力を持った神秘的な物でございます。親が子の心配をするのは憲法以上に当然であり、子が親の心配をするのもまた然りでございます。

 前田真司は今回の立候補にあたり、有り難い反対を頂きました。親子の絆とはこういうものかと改めて思い知った訳でございます。全身をもって翻意を促され、私もそれを聞きながら、立候補すると言ってもいかに自分が勉強不足であろうか、経験不足であろうか、ちっぽけな存在であろうか真剣に考え、実際に心だいぶ揺らぎました。何より父の身体の心配が1番でありました。私の存在は母、そして父なくしてはありえないからであります。

 両親の許しを得なければならないと努力しましたが、結局得ることは出来ませんでした。立候補を止めるのは簡単でありました。またそれをたくさんの人に勧められました。しかし「強きを助け弱きを挫く」日本社会の今の現状を見ていると、いつかは今回の立候補に悩み苦しんだ以上の苦難が待ち受けるのは必至と確信してしまうのです。

 出来る事は最善を尽くして前進しなければ人間の進歩はなく、社会は不安定な要素を抱え生活は実際に苦しくなっていきます。私が今回訴えるのは、我々が持つ唯一の政治力、選挙権の行使であります。

 ここまで日本社会がほころびを見せる中、ここ何回かの選挙では選挙権を棄権してしまう「国民」が3割を超えています。3割もの「国民」の意見が、我々の生活の基本を整える政治に届いていないのであります。また棄権した人もそれを分かっております。棄権する人はある意味、政治に対して真剣であるのでしょう。自らの選挙権を預けられる政治家が見つからなかったという事で、投票に行かないのであります。

 しかしそれでは既存の政治家に舐められるのであります。政治の仕事も手を抜いた仕事、議論が行われる恐れがあり、また然るべき政治家が育ちにくい土壌ともなりましょう。

 我々は万一、選挙権を預ける立候補者に恵まれなかった場合は、既存の政治に対する批判票として白票を投じるべきであります。投票率60%の選挙で半分の票も取らずに当選する候補者ならば、投票率90%の選挙になって30%以上の白票があれば、既存の政治に対する立派な批判となり、政治家の論戦にも自ずから緊張感が生まれましょう。

 緊張感のない、3流の台本に沿った論戦ばかり買わされるので、我々は興味を失ってしまっているのであります。しかしそれは我々の低投票率によって招かれているものであります。どうかみな様、あくまでも健やかに、前向きに、不信任であれば白票を持って、100%の投票率をお願いいたします。

 末筆申し上げますが、私は政治家として自信がありません。その私に投票する事こそ、政治に対する心が「どうかしてしまっている」と若輩苦言致します。みなさまどうぞお許し下さい。


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